食べたり眠ったり

スイッチ・オン!

それは昨日の朝、突然「あ、今、“家事やる気スイッチ”が入っているような気がする」と感じました。
せっかくのチャンスを無駄にする手はないと、本当は来週とるはずだった夏休みを1日変更しました。
それができる仕事でよかった^^
「お休みにはあれをして、これをして・・・」と思い描いていても、
いざとなると腰が上がらずダラダラ過ごしてしまうことになる私は、
スイッチが入ったのを確認してから休んだほうがずっと有効ですから。

・・・とは言いつつ、せっかくの「夏休み」なんだし、と、午前中は洗濯機を回しながら映画を見たりして割とのんびり。
お昼前くらいから、片付けが始まりました。


「家事スイッチ」と思っていたのは、実は「断捨離スイッチ」だった模様…。
いやぁ、久しぶりに決断が冴える、冴える・・・。
「これは、いる」「これいらない」と閃きと直感に身を委ねること3時間あまり・・・ああ、この冴えている自分の感触を味わうのが、もしかして本当はいちばん好きなのかも。

かなりナチュラルハイな状態で、一息ついたとき、ゴミ袋がいくつ出来上がっていたかは、ここでは伏せますが、間違いなく「そんなに捨てたら、あんたの家、何もなくなるんじゃ??」と友人に責められそうな数でした。
いやぁ、知らないうちに、知らないうちに、こっそりたまるものなのですよ。


その後、このやる気状態はどんどん加速しています。
今日は、半日だけ出勤したあとで、模様替えまでしてしまいました。
それでもまだまだ、やまない「やる気」。
いえ、ここまで来ると欲望に近いです。


明日は10時くらいには出かけなきゃいけないけど、
それまでにどのくらいできるかな?
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# by hidamari_2nd | 2013-08-09 22:05 | 暮らす

もういちど、あいたい。

二週間前から私のもとに実習生が来ています。
職場に一人という少ない人数の仕事、実習生にもなかなか当たることはなく、私自身も「一生実習生を持つことはないかも・・・というか、持たなくていいし、自信もないし・・・」と思っておりました。
私の仕事は、現職についてから先、ほとんど「指導」というものを受ける機会がありません。
その現場に一人の職種、「昨日まで学生でした」という状態で職に就いても、その瞬間からほかを動かしていくことを求められます。
そして「いい」も「だめ」も本質的には言われることなく終わっていく仕事でもあります。
時代とともに、多少の改善はされているみたいですが、少なくとも私にとっては、道標となるものは、学生時代に経験したほんの4週間の実習だけでした。そこで、指導教諭にもらったものだけを頼りになんとか歩んできたという思いがあります。

おそらくはとても幸運なことに、実習生を指導する機会を与えられて二週間。
もはや四半世紀も前の自分の経験を思い出しながらやってきました。
その昔、私は実習で指導教諭の先生にとても良くしていただいた記憶があり、彼女だけが頼りだった覚えもあり、あの四週間だけが、そのあとの25年を育てていく種だったという思いもあるので、当時自分が与えていただいただけのものを、出来るならばそれ以上のものを、今の実習生に与えられるようでいなければ・・・と、そんな思いで、今回に臨みました。



昨日、実家に帰ったついでに、当時の自分の実習日誌を持って帰ってきました。
もはや、劣化した紙は茶色く、B5の版も古臭く、歴史ばかりを感じさせる日誌です。
毎日、実習生の日誌にコメントしながら、ふと、「自分はどんなことを書き、そしてどんなコメントをいただいていたんだろう」と思ったことから、発掘してみたものです。
あのころ指導教諭の先生からいただいたものとせめて同等のものを与えたくて、当時の記録を省みて見たくなったのでした。


そこには、まだ若く幼く未熟で、だけどやる気に満ちて瑞々しい自分自身と、そんな未熟な私にとことん向き合って指導してくださった先生の記録がありました。
四月のいちばん忙しい時期に、他の教生の(当時)2倍にあたる4週間実習、しかも、二人目のお子さんを出産されて、育児休業が開けてすぐの実習生は、かなり迷惑な存在だっただろうに、その先生は毎日のように「二人だと楽しいですね」「高橋さんがいると、いろいろ私も勉強できますね」「高橋さんがいてくれるおかげで、助かります」「高橋さんが採用されたら、一緒に勉強できますね」・・・そんなことばをかけてくださっていました。
おっとりとした喋り方で、いつもニコニコ朗らかにされていて、私にとっては、理想の養護教諭でした。

そんな先生は、確か私より十歳くらい年上だったのですが、十年くらい前・・・だから、今の私と同じくらいの年齢の頃に、亡くなられました。
ずっとやり取りを続けていた年賀状が届かずに、それに少し遅れて、旦那様から届けられた葉書には、その前の年の夏に事故で亡くなられたことが綴られていました。私の中では、実はその時からずっと「事故」ということばの持つ意味の、とても大きな範囲の端っこに、彼女の死が位置づけられています。飛行機事故や交通事故ならそう記されるはずのもの。それ以外に一体どんな「事故」が起きたら40代半ばの命が終わることがあるのか・・・それは、考えなくとも分かることだという思いがあります。
その少し前から、手紙の中の彼女のようすがどこかおかしかったこと、当時の自分が、やはりいろいろあって休職せざるをえない状態を経験したばかりであったこと、そんないろんなことを鑑みて、「事故・・・って、おそらくはそういうことなんだろうな・・・」と一枚の葉書からそんなことを察してしまったのでした。

現場に出て、長い年月を経てから、ようやく初めての実習生を持って、今だから改めてわかる当時のありがたさというものがあります。あの時彼女からもらったものが、私にとってどれほど大きな財産であったかを、今もう一度あらためて、実感させられています。
そして彼女が、この特殊な仕事に就いた私にとって、どれほど大きな、唯一に近い、頼れる存在であったかを思い知って、今、出来ることならばもう一度彼女に会いたいと、切実に感じています。

どんなふうに別れた人とも、もう一度会いたいと本気で願ったなら必ず会える、生きている限り・・・。
いろんな場面でそう信じることで乗り切ってきた私ですが、今、そのうしろにある「どんなに願っても二度と会えない人がいる」という事実を、強く噛み締めています。
生きていて欲しかった、どんな状況でも、生きていて欲しかったと思います。
そうして、今の自分を見て欲しかった、それでいいと言って欲しかった。
いつか、とことん仕事に行き詰まって、年休をとって彼女の保健室に駆け込んだとき、私が話す現状を静かに聞いて「ああ、いい保健室ですねぇ」とおっとりと笑ってくださったあの日のように・・・。


実習生には、この私の日誌も見てもらおうかな・・・と思っています。とても恥ずかしいことだけれど。
その後の長い長い毎日を支えるにはあまりにも短いこの日々で得られるものには限りがある。
だけど、かつて私が、同じ短い日にそこで得たものを加えたなら、それは、2倍には至らなくても1点何倍くらいには膨らませることができるかもしれない。
それに、私という後輩に残してくれた彼女の言葉を、出来るなら私の後輩にも伝えていきたい。
実習生がもしこのまま現場に立ち、その後の日々をこの仕事と向き合って過ごすことになるなら、それはきっと大きな力になってくれると思うから。
この仕事は、先人の開拓によって成り立っているものだし。
私たちは、ある意味いつもひとりだけれど、別の意味で、長い歴史をつなぐ幾多の同業者のなかの一齣でもあるから。
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# by hidamari_2nd | 2013-06-02 18:21 | 思う

月の砂漠

友人のFB記事がきっかけで、童謡をいろいろと思い出していたら、なんだかいろんなことを思いました。

童謡には、結構詳しいです。
浦島太郎の唄も、たぶん全部歌えるし・・・(笑。
それは、さんざん「童謡」を聴かされて育ったからです。
子どもの頃、私の家には「よいこのゴールデン童謡集」という5枚組くらいのLPレコードがあり、
よく、それを子守唄がわりに寝かされていました。

そう、今思えば、「やっちゃいけない子育て」みたいなのを、けっこうされて大きくなりました。
子守唄を歌ってくれるのがステレオプレイヤーだったり、
「テレビを観せておけば大人しい」をやられたり、
「寝る前にちょっと激しく遊んでやると牛乳を飲まずに眠ってくれて安上がり」と落下睡眠の癖をつけられたり・・・^^;
(聞くところによると、牛乳2本飲みながらでないと寝付かない時期があって、私の牛乳代が家計を圧迫し、牛乳代稼ぎのために母が内職を始めたのだとか・・・(笑
まあ、貧しかったし、若かったし、生きることが最優先で、その都合に合うように子育てされるのが当たり前の時代だったと思います。)

だけど、まあ、それでも、こんな程度の大人に育つものです。
幼少期の落下睡眠の影響かどうかはわからないけれど、その30年以上のちに重症の睡眠障害を患い、社会生活も危うくなってみたり、思春期にいろいろと問題を起こしてみたり、大人になってから「働けない時期」を経験したりしたけれど・・・
でも、まあ、神経質にならなくとも、こんな程度の人間には育つのですよ(って、どうしよう、明日からみんなが神経質に子育てしないと大変だ!!て思ったら・・・^^;)。

これでも一応、今はちゃんと社会人しているつもりです。
これでも一応、「我が家ではいちばん出来のいい娘」と言われて育ちました(ちなみにひとりっ子)。
そして、これでもいちおう、ほぼ健康だし、生まれてきてよかったと思っているし、仕事もあるし、恋もしたし、友もいます。

それで、いいかな?・・・と思うのです。


おっと、話を童謡に戻しましょう。


いちばん好きな童謡は・・・「月の砂漠」です。
これは、実家の母も好きで、よく歌ってくれました。一緒にも歌いました。
今もときどき思い出して口ずさみ、
「それにしても暗いメロデイだ」と半ば感心してしまいます。


童謡は、けっこう短調が多いです。
情緒豊かで心に残る歌ほど、短調で物寂しいです。
長調の歌でも、歌詞がどことなく寂しかったりします。
「しんみり」ということばが、とても合う。
そして、その、「しんみり」をどこかで愉しんでいる自分がいる。


そういう、文化的ルーツのようなものに触れるたび、
自分のなかの「血中日本人濃度」みたいなものを感じます。

少なくとも日本人にとって、「生きる」ことには常に「つらさ」「悲しさ」「寂しさ」が伴っていたのではないか、と
そう思う材料はたくさんあります。
童謡の響きもしかり。
生きる味わいも趣も、この「マイナスっぽい」側面により多く存在しているような気がするしね。


それを、よろしくないことととらえる方は多いかもしれない。特に昨今では。

だけど、思うのです。
「生きるのは、寂しい」「生まれるのは辛い」
それでもいいんじゃないかな?・・・って。



「生きるのは辛い」と「生きることは素晴らしい」は、
本当はおんなじ意味じゃないかと思うことが多々あります。
だから、辛くてもいいし、寂しくてもいいし、悲しくても全くかまわないと思えるのです。
もしも、生まれたことや生きていることが常に「素晴らしい」という感覚を伴わなければいけないものだったら、
そのほうが苦しいと思うのです。



人の世の苦行をあらわす4つの象徴は「生老病死」。
しょっぱなに、「生きる」「生まれる」が来ちゃっています(笑。
だからやっぱり「生まれる」も「生きる」も苦しいんだと思うのです。
でも、それでも人は「生まれ」て「生き」る。
そのことが、素敵なんじゃないかな?って。

上手に伝えられることばが見つけ出せない・・・というのが本音ですけれど、
それでも、わかる人にはわかるんじゃないかな・・・?と思っています。


「月の砂漠」を口ずさみながら、
自分が生まれてから今日まで歩いてきた日々を思うとき、
どことなく哀しげなこの歌の空気にすっかりはまって時には涙さえ浮かべながらも、
そのうしろに「しあわせな気持ち」が確かにどっしり存在しているのを感じます。



生きている毎日は、簡単に「いい」とか「悪い」なんて言えない。
だけど?だから?
今ここに自分がいることに、すごく大きな意味があるんだな・・・というのがわかります。


「ま、いいか」
という、この上なく曖昧でいい加減なことばが、
実は人生を最大級に肯定しているような気がするな(笑。


「月の砂漠」は、
本当は4拍子なのだと思うのですが、3拍子でも歌える不思議な歌です。
4拍子と3拍子で、微妙に趣が変わったりします。
私は3拍子が好きです。
鳥取砂丘の歌、らしいですね。


********************

月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました
金と銀との 鞍置いて 二つ並んで 行きました

金の鞍には 銀の瓶 銀の蔵には 金の瓶
二つの瓶は それぞれに 紐で結んでありました

先の鞍には 王子さま あとの鞍には 御姫さま
乗って 二人は お揃いの 白い着物を 着てました

月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました
砂丘を越えて 行きました
黙って越えて 行きました

********************

そうそう、急に思い出しましたが、
おーなり由子さんの「月の砂漠をさばさばと」という小説は
いいですよ(^_-)-☆
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# by hidamari_2nd | 2013-05-01 22:48 | 思う

私の本棚

久しぶりに、書店をぶらぶらしてきました。
本屋さんがどんどん減っているこのご時勢、自宅の最寄駅に、ともかくもそこそこレベルの本屋さんがあるというのは、本好きにとってはありがたいことなのですが、普段はほとんど寄りません。
理由のその1は、「思った以上に時間を費やしてしまうから」。
平日は、寄り道しないで早く帰らないと・・・なのですよね。だけど、本屋さんに寄ると簡単に時間が飛んでしまうので、うかつに寄れません。
二つ目は、「ついつい買っちゃうから」。
なるべく本を買わないようにしているのです。本好きなら、買えよ!ですけど(笑。

久々の書店は、やはり楽しくて、ここは私としてはそんなに「センスの良い書店」とは思っていないのですが、それでも「ちょっと」と思う間に1時間以上が経っていました。
そして、結局、2冊も本を買っていました。
・・・ああ、だから、危険なんだってば・・・!!

そんな中で、タイトル忘れてしまったのですが、
「美しき書店」的な写真集を見つけました。
パラパラとめくってみただけですが、堆く本の積まれた、それはそれは魅力的な風景が連なる、美しい写真集でした。
それを見て、「あ」と気づいたことがありました。

メディアマーカーというサイト(?)を、利用しています。2年ちょい前から。
自分の読んだ本、観たDVD、欲しい本、観たい映画・・・などを登録しておけるページです。
私については、とりあえず、2010年の8月以降の分のデータが保存されています。
この2年と9ヶ月か10ヶ月のあいだに読んだ本が139冊、観た映画が(DVD&録画で)96本らしいです。
タイトルだけの場合もあるし、時間があるときにはレビュー・・・というか、他人に読んでもらうレビューではないけれど、自分が「これってどんなのだったっけ?」と思ったときに役に立つ覚え書き程度のコトバを残してあります。

メディアマーカーのことを知った時には、単なる記録好きの血が騒いだのと、あともう一つは「読みたい本」「読んだ本」をどこかにまとめておいたら便利だな・・・という気持ちだけで登録したつもりでした。
でも、今日、書店の写真集をみて「そうだったのか」とあらためて思ったのは「自分の本棚が欲しかったんだな、やっぱり」ということでした。


27で実家を出て、自分の所有できるスペースの限度を知ったとき、私は「本を所有しない」ことを選びました。
買っても、読んでも、終わったらそれらは手放すことにしたのです。
そして、ちょうどメディアマーカーに登録した頃から、図書館と濃密にかかわるようになり、「買う」本も本当に厳選するようになりました。
限られた時間と空間と経済的事情の中で、よりたくさんの本を読むためには、そう選択せざるを得なかったからです。

だけど、きっと私は「自分の本棚」が欲しかったのだと思います。


私の友人には「友だちの家に遊びに行くと、ついつい本棚を見てしまう」という「イヤラシイ」趣味を持った人が少なからずいます。実際のところ、私自身もそうです。
なぜなら、書棚を見るとその人がわかる気がするから。その人の脳内、心の中、生きてきた軌跡を、そこに見ることができるような気がするからです。

返せば、それは、「書棚は自分の履歴書」ということでもあります。
読んできた本を並べた場所には、どんな言葉を駆使するよりも饒舌に「自分」という人間を表現することができたりするものだと思うのです。

そういう意味で、私は、言うなれば「自分の履歴書」として、『私の本棚』を持ってみたかったのだと思います。
それこそ、時間と空間と経済の事情が許すなら、本当は読んだ本の全てを、美しくストックしておいて誰かに見せたかったのかもしれません。だって、それが、自分を解ってもらうためにとても有効だということを知っていたから・・・。


インターネットで情報が得られるようになり、電子書籍が発達し・・・それは、活字好きの人間にとっては紛れもない「進歩」で、歓迎すべきことではあります。
本が重くなくなって、本が「読みたい」その場で手に入れられるようになって、私自身、とても喜んでいる、と、思います。

だけど、それだけじゃない。
縁した本を積んで並べて眺める快楽・・・というのが、あります。
本、そのものを、手で触れて頁をめくる楽しみ・・・というのがあります。

本というものを「買わない」「持たない」を信条にしてしまっている私が、こんなことを言うのは本当におこがましいけれども、いつか時間や空間や経済に余裕を持てる時が来たら、やっぱり、私自身が出逢って触れ合った書籍たちを手に触れられる形で集めて並べて眺めて、自分を振り返ってみたいな・・・と思うのです。
読み終わったら終わり、ではない何かが、「書籍」には、ある。と思います。

だから、「書籍」という文化がなくならないで欲しい。
そのことになんの貢献もできていない分際で言うけれど、
「本」はそこに印刷されている文字とか、情報とかだけじゃない、たしかな「なにか」を伝え残す作品なのだと思います。
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# by hidamari_2nd | 2013-04-28 20:36 | 読む

美しい髪

「駅 STATION」という映画を観ました。
雪景色の中の高倉健さん、というポスターだけは
記憶にある方も多いかも。
旧い日本映画です。
二十年くらい前のものだと思っていたら、
1981年の作品でした。
・・・私だって中学生だよ・・・。

北海道、単線の駅、吹雪、健さん・・・という
極めつけの昭和の日本映画です。
でも、今日は、映画の内容の話ではありません。


この映画の中に、倍賞千恵子さんが髪を梳かす後ろ姿が
大きく映る短い場面があります。
そこで映し出される彼女の髪が、本当に、
一瞬息をのむほどに美しいのです。
まさに、ハッとさせられた瞬間でした。


最近の日本に、髪の綺麗な女性は山ほどいられます。
カラーリングも、ヘアケアも、パーマも矯正も発達して、
あの映画の当時には考えられなかった
「なりたい髪の毛」に近いものを、
あの頃よりはずっと簡単に手に入れられるようになったと思います。
スタイリングもどんどん垢抜けたし、
若い女の子のサラサラロングヘアには、
ツルツルの手触りも天使の輪も、もはや標準装備です。

だけど、この、倍賞さんの髪を見たとき、
「本当に美しい髪というのは、こういうのを言うんだな」と
感じました。
豊かに波打つ髪に、皮脂の行き渡ったその感じは、
毛並みの良い獣を思わせる艶をたたえていました。
日ごろ目にしている、サラサラで軽く、
コーティングされた輝きを放つ髪にはない、
豊穣な色香と生命力を湛えているように見えました。

あんなにあでやかで、艶かしい髪を、
もうずっと長いこと、見たことがなかったな・・・と思いました。


髪というのは、アクセサリーではなく体毛なのだというのを思い出しました。
この髪を撫でるということは、肌を、命を撫でることと
同じ意味を持つ、とてつもなくエロティックな行為になるな・・・と
そんな風にも感じました。

こういう髪を、いつの間にか日本の女の子たちは
手放してしまったのだな・・・と思います。
憧れのスタイルを追い、「きれいな髪の条件」を追い、
追ったものは、求めたものは、なんとしても手に入れたいという
貪欲さの中で、
天賦の美しさがこぼれ落ちてしまっていたことに、
気づかずにいたかもしれない・・・と。


この映画の倍賞千恵子さんは、髪だけでなく、
その姿かたちも佇まいも、とてもきれいでした。
思わず年齢を調べてしまったのですが、40歳だったことがわかりました。

今の40歳よりは、ずっと大人です。
老けている、とも、言えると思います。
近頃は、「とても40には見えない」若くて綺麗な女性がたくさんいます。
でも、彼女は「40なのにきれい」なのではなく、
「40だからきれい」でした。
そのことに、ものすごく、憧れました。
40なのに40には見えないように、美しくあろうとしているばかりでは、
40でなければ到達できない美しさを手にすることはできないのだと思いました。
それは、数字が50になっても60、70になっても同じことでしょう。


「美魔女」と呼ばれる人たちを大勢目にします。
たしかにお綺麗な方々です。若いです。娘と姉妹のよう、ということばも
嘘ではありません。

だけど、

魔女は所詮魔女。


生身の人間という獣の雌として、
綺麗に成長し、成熟し、老いていくために、
忘れてはいけないものがあるな・・・ということを、
私は、
あの、画面いっぱいに広がったたわわな髪の艶とともに、
心に留めておこう・・・と思っています。
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# by hidamari_2nd | 2013-02-22 22:01 | 思う

どうなってんだ!!

よく考えてみると、自分自身が直接向けられたことはあまりないのですが、
「○○はどーなってんだ!!」って言う人は、少なくないような印象があります。

でも、思い込みかもしれない。
・・・だから、そう仮定した上で、あくまでも私の中にある「イメージ」として
「巷に溢れる『どーなってんだ!!』族」についてまとめてみます。


まず、それを口にする人は大抵、尊大です。
「私は正しいことをしている」という自身に満ち溢れています。
正義は何かをちゃんとわかっているつもりで、
そして正義というものはどんなに乱暴にブンブン振り回してもいいと思っているようです。

○○に入るコトバはとても大きなコトバである場合が多いです。
世界情勢とか、国の対応とか、日本の教育とか・・・。
それは、あまりにも大きくて、私などから見るとなんだかよくわからなかったりもします。
音にしたら「ぼわわわわ〜〜〜ん」っていう感じ。

そして、彼らは、そんな大きな問題を、
大抵「個人」にぶつけてきたりします。
しかも、どこそこの○○さんという個人ではなく、
たまたま電話に出た窓口係の人、とか、
いいとこ、「責任者」と指定したら出てきた、初めて口をきく人とかです。


思い込みなのに、失礼かもしれませんが、
私は「どーなってんだ!!」という人たちのことが、
あまり賢いと思えません。

私が思う賢い人は、「どーなってんだ」ではなく「こーなってるだろ、そことここが問題だろ」と
せめてもう少し、考えた形跡が見えることを言ってくれる人です。
さらに言うなら、「こうすればいいだろう」と道を提示できる人。
もっと言うと、「こうすることは難しいのか?」と提案型で言ってくれる人。
なぜなら、発言の裏に「自分にはまだ全体が見えていないかもしれない」という
畏れ(?)を持って考慮する姿勢が見えるから。
そういう人だと、「意見を言ってくれている」気がします。
「文句をつけている」のではなくて。
・・・まあ、私は小さい人間なので、文句つけられた気になったりするのかもしれませんけれど。

そして、賢い人はそもそも、ぼわんとした主語で話したりもしません。
主語の囲いが大きすぎたら論点がボケることがちゃんとわかっているのだと思います。

ちなみに、そのように賢い人は尊大ではないことが多いです。


そんなわけで「どーなってんだ!!」と言う人たちは
恐るに足るような存在ではないのかもしれない、と思うのですが、
無差別に突然ぶつかってきては、偶然出会った相手をたいそう不快にさせるので困ります。
さらにもっと困るのが、この手の人たちは日本語があまりお上手ではないところです。
会話というのが、うまく噛み合わなくなることがとても多い気がします。

そもそも、この「どーなってんだ!!」だって、「どーなってんだ??」ではないのですよ。
「どーなってんだ」の人たちは「こーなってますよ」という答えに満足してくれません。
彼らが求めているのは謝罪なのです。
「どーなってんだ」「ごめんなさい」って、
日本語として正しいやりとりなのでしょうか。
私には、どうしても、気持ち悪さが残ります。


そして彼らは「どーなってんだ!!」をぶつけたあとで、
仲間に自慢したりするのです。
「言ってやったよ、バシっとな」みたいに。

大切なのは「言う」ことなのか、ちょっとよくわからなくなります。
彼らは「言ってやった」そして時には「謝らせてやった」。
その後、何が残るかというと、対応した人間の不快感のみです。
あ、ご本人のスッキリ感もあるか。

ある人がスッキリし、ある人が不愉快な気持ちになった。
結果それだけの出来事が起きただけで、
日本の教育、だの、国のなんちゃら、だのという
とてもとても大きな問題は何か解決されるのでしょうか。



いっそ、もっとわかりやすく言ってくれたらいいのに。

「私は腹が立っているんだ、だからともかく謝れ」
「わかりました、ごめんなさい」

そんなやりとりなら、
わけがわからないなりに、日本語も合っているし、
なんとなく意味のある会話に思えて
徒労感も少なくなりそうなんだけどなぁ。



あ、まあ、あくまでもイメージなんですけどね。
実際にしょっちゅうそんな人と対峙しているわけじゃないんですけどね。
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# by hidamari_2nd | 2013-02-07 18:56 | 思う

からだ礼賛

きっかけは、約一年ほど前。

飛騨に旅して、飽きるほど(ホントに飽きた、あの時は)美味い牛を喰らい、
満足感と胃もたれを抱えて帰ってきた翌日のことでした。


一夜明けても、お腹が(いや、全身が)まったりと重く、
一刻も早くスッキリするために、いろいろ思いを巡らせながら、
近所のマーケットを何周も回って出てきた自分の両手に、
ほとんど無意識のうちに握られていた大量の鯖と鰯を発見したことは、
かなり大きな衝撃だったのです。



「そうか、青魚か…」



その時、私は自分のからだの賢さに、ほとんど感動に近い感覚を抱いていました。
私の、この愚かしき「頭」が思考していたのは、
「あれだけ食べたんだから、今日はご飯抜く?」とか
「野菜のお浸しとか酢の物とか、お茶漬けなんかならさっぱりでいいんじゃない?」とか、
その程度の浅はかなことでしかなかったのです。

だけど、あの過剰なコレステロールをいち早く分解・排泄するために必要なのは
青魚の脂(DHA…いわゆる善玉コレステロール)だということを 私の「からだ」はわかっていたのです。




その日から、私の食生活は変わりました。

付け焼刃(というには十分すぎる程度の蓄積はあったのですが)の 知識や学問にとらわれず、
頭でっかちに脳みそで考えず、 だからといってイメージや気分(同じか?)に流されず、
「からだ」に尋ねて、その時「からだ」が「食べたいものを食べたいだけ食べよう!」と…。

それからは、食事のみならずおやつ、嗜好品に至るまで、
全て「からだに尋ねて」食べる日々が続きました。

からだにイイモノ、も悪いモノもありません。

カロリーが高いも低いもありません。

栄養素がなんだなんて知識は邪魔なだけ。

ファストフードが食べたければ、 「欲しいのはハンバーガーなのかチーズバーガーなのか、
照り焼きチキンなのか」を 真剣に考えました。

チョコレートがつまみたければ、 「明治のマカデミ○ナッツとメルティー○スと
ロッテのこれとゴディバと …どれがいいの?」と 本気でからだに訊きました。

今日の晩御飯に何を食べたいか、考えることにかなりの時間を費やしました
(結果、つくることに時間をかけず、デリになったことも多々) 。

それは、それなりに結構なエネルギーを要する作業でしたが、 ストレスにはならないので続けられました。

「あれを食べなきゃ、これは食べない方が…」と考えずに 「食べたいものを食べたいだけ食べよう」と思うと、
ストレスはないものです。

そして、続けるにつけだんだんと要領を覚え、
最近では、たいした苦労もなく無意識に実践できることにもなりました。




そんなこんなで、一年近い月日が流れ、 気づいたら私の体重は5キロくらい減っていました。
一時は増える一方で、どんな努力も効を奏することがなくて、
「これが寄る年波ってやつなんだろうか」と諦めかけていましたが、
今思うと、頭で考えて努力して 「体重をコントロールしよう」としたことが
大きな間違いだったのだと思います。

もちろんこれは、「より健康な」状態に近づくためのもので 「美しくなる」方法ではないので、
同じことをしても標準体型の人がモデル体型になったりはしないでしょう。
私自身、鏡を見て「スタイルが良くなったわ~♫」というようなことはなく、
だけど、この2、3年、生活や動作の端々で感じていた
「いずい」(←東北弁らしいです。うまく言えないけど、なんか居心地が悪いような気持ち悪いような、
どこかがしっくりこない感じをいいます) 感覚はかなりなくなりました。
(まだ今後も、良き変化は続くものと思われます)



もうひとつ、この生活を通して感じたのは、
「やっぱりからだはジャンクなものを欲することはほとんどない」 ということです。
ファストフードも、スナック菓子も、大好きなアルコール飲料も、 私は一度も自分に禁じなかったけれど、
「うん、摂っていいよ、どれがいい?あれ?これ? いちばん好きなの選びなよ」とからだと相談すると
「…やっぱりあんまりどれも欲しくないかも」という答えが返ることが多かったです。
まあ、その土台には、 自分の育ってきた時代背景
(まだ、そんなに日常の食生活が壊れるほどの 便利さは行き届いていない時代だった)とか、
私を育ててくれた親(特に母親)が、ちゃんとしたものをちゃんと食べさせてくれていたこととかが、
影響しているとは思いますけれど…。




私は、健康教育に携わる仕事をしていますが、 日常、意識的に、
「健康管理」ということばを使わないようにしてきました。
健康を意識で管理しようなどというのは思い上がりであり、
私たちはからだに敬意を持って、からだに「管理されて」初めて 健康になれるのだ
という哲学を持っていたからです。
だけど、そんな私でも、気を抜くとうっかり「体重をコントロールしよう」なんて思ってしまう。
人間は、不遜な生き物です(笑。



からだは、生きることを知っています。

からだは、健康になることを望んでいます。そして、その方法を知っています。


今、あらためて、 「からだってすごいなぁ」というのを 強く強く感じています。


そんなからだの賢さを、実感して、実践して、
これから、もっともっと、「からだに管理される」謙虚な生活を 伝え広めていきたいな…と
あらためて思いました。


人工の社会で生きる現代人の私たちにとって、 私たちのからだは、
最後に残されたいちばん身近な 「大自然」なのです。
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# by hidamari_2nd | 2013-01-18 23:30 | 食べる

明日から

バレエのレッスン復帰の予定です。
2ヵ月半ぶりかな?
当初は2月いっぱいまでお休みかも…と思っていたので、順調といえるかも。
まあ、実際、負荷がかかって悪化するようならまたお休み…になるんだけど…。
いろいろ回復したものの、ウエイトは結局落とせていないので、少し心配です。

でもね、踊りの筋力は落ちただろうけど、
いつもの筋肉を使わず、ピラティスとジャイロに励んだお蔭で、
全身の筋力のバランスがかなり変わって改善されているので、
少しだけ楽しみでもあります。
頑張りすぎると、またもとの癖に戻っちゃうだろうから
のんびりのんびり行こうと思います。
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# by hidamari_2nd | 2011-01-31 23:05 | 踊る

本を探す旅

少し前から探している本がある。
なかなか見つけられない。
Amazonとかで探せばいいじゃん…という問題なのだが、
それをしたくない。
実物を手にとって、ぱらぱらしてみたりして、それから買いたい。
それ以上に、もしかしたら、
「読みたい」よりも「探したい」のかもしれない。

探している本があるから、
どこへ行っても、出先では必ず本屋に寄るようになった。
どのあたりにおいてあるか、あまり見当がつかないので、
本屋の中を、かなりくまなく歩き回ることになる。
店員さんに「こんな本を探しているんですが…」とたずねればいいのかもしれない。
でも、それをしたくない。
やっぱり、「欲しい」より「読みたい」より、「探したい」のかもしれない。


そんな暮らしをしていたお蔭で、
探していた本はまだ見つからないけれど、
このところ、本との出逢いが増えた。
読んだことのない作家の本を、また、手に取るようになった。
鈍くなっていた鼻も、かなり利くようになってきた。
読みたい本がどんどん出てきて、
本を読むために、通勤電車に変えようか…なんて、
瞬間思ってみるくらいになった…。



もしかしたら本当に探しているのは、
こういう新たに出逢う本のほうかもしれない。
探していたのは、本を読みたい気持ちのほうかもしれない。
だからともかくも、もうしばらくの間、
見つからなくても自分の足で、その本を探し続けようと思う。





それから、
リアルな本屋がなくならないためにも、
やっぱりもっともっと本屋に通おう…とも思う。
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# by hidamari_2nd | 2011-01-29 20:54 | 思う

そんな日…。

早く帰れそうな日だったので、昼間に約束をして実家に行ってきました。
母は最近吐き気がひどい日が多くて、食事の支度がしんどいらしいので。
でも、今日の調子はまあまあで、私が到着したときにはすでに魚は煮てありました。
作りかけのポテトサラダを仕上げて、ほうれん草を湯がき
(しかも浮いてきた虫くんを見なかった振りして捨て)
あとはそれほどすることもなく…。

しかし、父の喜びようは予想以上で
「おとーさんは元気な人に飢えているんだ」とか何とか(笑)。
たしかに、四六時中気持ちが悪い人と二人きりで食卓を囲むのはつらいのでしょう。
私の役目は、食事を作ることよりも、
食卓にあとひとり健康な人間の存在を増やすことなのかな…と思ったり

さらには、父の田舎からいただいたお見舞いに対する
お礼状の代筆を頼まれる娘。
…「あんたが来てくれて良かった~。いやー上手だよ」
と、こんな私が家族でいちばん達筆という、
家族全体の筆跡レベルの低さに少し寂しい気持ちを持ちましたが。

(とりあえず、男らしい文字で良かったかも)

「ありがとう、たすかったよ」
帰り際の父のことばは間違いなく礼状に向けられていたな…と思うにつけ、
人はどこで必要とされ、どこで役に立てるか、
それはまったくもって、必要と「する側」に預けられているものなのだと実感しました。



まあ、なんでもいいか、まだ私の出番がある場所がある…。
いいのか悪いのかなんてどうでも良くて、
そういう場所が、私にとって大切な場所のひとつなんだよね。
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# by hidamari_2nd | 2011-01-26 23:00 | 暮らす



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